高岡鋳物・金屋町の起源について............................................................................金屋町マップ 今から約400年前(1611年)、高岡の開祖加賀藩二代藩主 前田利長公が、 高岡の産業の発展のために、 日本の鋳物発祥地である河内丹南の鋳物師の流れをくむ7人の鋳物師 (金森弥右衛門、喜多彦左衛門、藤田与茂、金森与兵衛、金森藤右衛門、 金森九郎兵衛、般若助右衛門)を招いて 千保川の辺の金屋町に鋳物工場5ケ所を建設して開業させ、 これに幅50間、長さ100間余の宅地5,000坪(16,500u)を与えて優遇されたのです。 この宅地は拝領地、または、御印地と称して現在にいたっています。 それ以来、加賀藩の諸役を免除して 保護することが明治維新まで続いていたと言わ れています。これが、高岡金屋町の創設になり、 日本唯一の銅や鉄器やアルミ製品の産地の起源になったのです。 高岡の工業発展の先駆者であるこの鋳物師等の 子孫によって伝統ある鋳鉄鋳物は各分野に進出し、美術工芸鉄器は、 技術の開発に伴い急速な進展を成し、高岡銅器は全国シェアの90%をしめるに至り、 伝統的地場産業として発 展を遂げました。 |
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やがえ節の由来について やがえ節は、約400年の伝統を持つ高岡鋳物作りの作業歌として今日までいくたの 変遷をみながら歌いつがれております。 鋳物を作るには、銑鉄(昔は砂鉄)を溶かすのに「たたらぶき」という製錬法を用 いました。鉄を溶かすために溶解炉へ強い風を送る時「たたら」を使う方法です。 「たたら」とは、足で踏む大きな「ふいご」の事です。 金屋では、「たたらぶき」を「かねふき」と言い、 これをする職人を板人といいました。たたら板(送風板)を踏む作 業は夜8時頃から翌朝の6時頃までかかるのが普通で、 12人で1組をつくり、二手に別れて交互に踏み続ける作業です。 この仕事は単純な作業ですが、 きわめて苦痛な労働であり、しかも、12人が一緒に 調子を揃えなければならない作業です。 そこで、疲れる心身を元気づけ足踏みを揃えるために 自然に歌われだしたのが、 「やがえふ」です。 「やがえふ」はまさに、高岡誕生のうぶ声であり、また、高岡を育て上げてきた子 守歌でもあります。この歌の中には、郷土の祖先が思いをこめて 「銅器の高岡、鋳物の金屋」と歌いついできたように、 私達も「やがえふ」を絶やさないように歌い続け、 保存していくことが、地場産業の発展に寄与することだと思います。 弥栄節と金屋町 郷土民謡で見る高岡(弥栄節)より 弥栄節保存会の歴史 昭和4年春 医師で郷土史家の氷見丈繁先生か、地場産業の息吹とも言えるやがえふを永く世に伝えんと「鋳物音頭弥栄フ研究会」を組織した。 昭和5年6月15日 氏神様の有磯神社祇園祭に、境内で初上演された。 昭和11年4月10日〜12日 東京青山の明治神宮外苑日本青年館で開催された、第10回全国郷土舞踊民謡大会 に出場し、NHKラジオで全国に紹介された。その際、前田侯爵邸に招かれて上演された。 昭和26年7月 富山県が郷土民謡の選奨を行うと発表した時、いち早く地元の横田小学校校長の宇於崎周三先生がやがえふの復興を提唱され、これに呼応して有志青年団幹部ら14名が「やがえ節保存会振興会」と名乗りをあげた。そして唄い手、囃子方、踊り方それぞれの受け持ちを定めて、猛練習を重ね、11月3日に県庁で熱演し、万丈の喝采を博した。 昭和34年 高岡市「開市350年、市制施行70周年記念」に合わせ リズミカルな親しみのある弥栄節踊りを清水保雄氏に依頼製作された。 ビクターレコードにて1969年に完成される 昭和50年7月 昭和26年から保存、普及に努めてきた同好者による「やがえ節保存会振興会」が解散し、 金屋町自治会全員による「弥栄節保存会」が発足しました。 昭和51年6月 「弥栄節保存会」を支援する「弥栄節後援会」が発足しました。 平成11年9月 指導者の育成を目的とした会「ヤッホーの会」(弥栄節保存会の「弥」と「保」を とって命名)が発足しました。 高岡市郷土民謡弥栄節保存会 |
【特別資料】 弥栄諷(やがえふ) 金屋町に伝わる元唄、弥栄諷(やがえふ) 七代目 老子次右衛門(明治生れ)による歌唱(昭和30年7月録音) 弥栄諷(やがえふ)は、古くからの鋳物作業唄である 昭和初期、親しみやすい囃子と踊り振付したものを 弥栄節(やがえぶし)と称し今日に至る 400年の伝統と鋳物師達の心意気を唄と踊りに込めて |
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